広報誌「真金倶楽部(まかねくらぶ)」
真金倶楽部

   「まかねふく」は「吉備」の枕詞です。
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NO.6  2004.3

 第6号の真金倶楽部をお届けします。さて、今回は一体どんな質問でしょうか。



はてな?

美作に縁のある剣豪といえば宮本武蔵だけど、備前で有名な剣豪といえば誰?
 昨年に続き大河ドラマの影響でしょうか。今回は幕末から明治にかけて奥村二刀流の使い手として全国に名を轟かせた岡山藩士、奥村左近太(おくむらさこんた)をご紹介したいと思います。


≪修行時代≫
 奥村左近太は岡山藩士奥村安心の子として天保13年(1842)岡山城下一番町に生まれました。早くから武道を好み、鴨方藩の剣術師範阿部右源次(直心影流)に師事して日々精進を重ねました。
 奥村家に残る『英名録』によると安政6年(1859)年、17歳の時に中国地方を中心に武者修行を開始しています。文久元年(1861)から翌年にかけては播磨・丹波・丹後・但馬・因幡、四国、九州へも足を伸ばしました。
 文久3年(1863)12月18日には師匠阿部から直心影流の免許皆伝を受けています。
 二刀流の研究、工夫を積んだのは文久の武者修行の頃からのようです。宮本武蔵の二刀(二天一流)が右足を出して正面に構えるのに対し、左近太の二刀流は「逆二刀」とも言われ、左足を出して剣を横に構え入身の姿勢を取ります。
  奥村左近太(1842-1903)

奥村左近太(1842-1903)
(奥村家所蔵)

≪剣術以外の武術≫
 剣術のみならず、槍術は香取兵四郎(香取流)、柔術は石黒武左衛門(起倒流)、弓術は吉田民次郎(日置当流)に師事し、それぞれ免許皆伝の腕前でした。
 そのほかにも砲術や馬術を修めるなど武芸百般に秀でていました。左近太恐るべし。
 石黒門下の皿井金之丞との剣術試合で、試合半ばから竹刀を投げ捨てての組み合いになり左近太が負けたため、「柔術を学んでおれば敗れなかったものを」と石黒道場に入門した話、弓術では100本射て96本以上的中させることが度々あり褒美をもらった記録などが残っています。

≪轟く勇名≫
 明治中頃になると全国的な大会に度々出場しています。主な大会をあげてみましょう。
東京上野の向ヶ岡弥生社撃剣大会
明治17年(1884)11月8日
(『山陽新報』(12月24日)を元に作成)
  負・・・勝 朽原義次(柳剛流)
  勝・・・負 真貝忠篤(田宮流)
左近太 引き分け 逸見宗助(立身流)
  勝・・・負 松崎浪四郎(神陰流)
  勝・・・負 上田馬之助(鏡新明智流)
神戸湊川神社楠公五百五十年祭奉納試合
明治18年(1885)7月20日
(『大日本剣道史』を元に作成)
左近太 勝(2-1)負 高橋筅次郎(田宮新剣流)
 勝(2-0)負 高山峰三郎(直心影流)

 左近太-高橋戦はともに二刀での試合。
 この試合で左近太は一等賞となり、月山貞一の太刀一振りを得ています。
 左近太の対戦相手は、警視庁撃剣世話掛内でも別格扱いとされていた逸見宗助・上田馬之助、名人上手と謳われた松崎浪四郎、左近太とともに二刀の大家と言われた高橋筅次郎、警視庁撃剣世話掛30人以上に連破した高山峰三郎などなど、名だたる剣豪・剣客ばかり。
 これらの大きな大会で彼らと互角以上の勝負を繰り広げ、「奥村二刀流」・「奥村左近太」の名は全国に知れわたるようになりました。
 なお、この頃の活躍により左近太の写真が芸者の間で大人気だったというエピソードも残っています。現代の人気スポーツ選手のような感覚だったのでしょうか。

≪天覧試合での栄誉≫
 天覧試合にも度々出場しています。明治18年(1885)8月6日岡山巡幸の後楽園能楽堂での試合と、明治27年(1894)11月2日広島大本営での日清戦争戦捷祝賀撃剣大会です。
 特に広島の天覧試合では松崎浪四郎と1対1の引き分けになりましたが、明治天皇から側近へ「あれが備前の奥村か」と声がかかりました。これを受けて更に小南易知(無刀流。山岡鉄舟の高弟)との試合になり、左近太が2対1と勝利を収めました。左近太はこの広島での天覧試合を一生の栄誉としました。

岡山城月見櫓

岡山城月見櫓
  ≪岡山城をめぐるエピソード≫
 岡山城は廃藩後陸軍の所管に移っていました。岡山城取り壊しの話が持ち上がると花房端連(後の初代岡山市長)とともに大阪鎮台へ赴き、城郭保存を嘆願。そのため天守閣(後に国宝。昭和20年(1945)に戦災で焼失)、月見櫓(国指定重要文化財)ほかが残されることになったと言われています。
 また、左近太は旭川の渡船権を持っていました。岡山城と後楽園を結ぶ渡し場を営む人々は、息子寅吉の代まで盆暮れの挨拶をしていたそうです。

≪剣豪その晩年と死≫
 左近太は明治32年(1899)に大日本武徳会本部教授となり後進の育成にあたりますが、体調を崩し明治35年(1902)教授職を辞します。
 左近太は死の数日前、優れた剣士でもあり後に岡山の剣道発展につくすことになる息子寅吉に、直心影流と奥村二刀流の免許を授けます。そして明治36年(1903)1月11日、剣に生き武の道に捧げたその生涯を終えました。享年62。法名は勇猛院了達信士。

 「天下の剣客をいふもの、先づ備前の奥村に指を屈せざるはなし。(中略)アア技の小、芸の微なるも、その妙神に入れば、則はち千歳に伝へて朽ちず。況んや剣はわが国の士道として重んぜられたるものなるをや。」(『山陽新報』(明治36年(1903)1月13日)に寄せられた悼辞より)
  奥村寅吉(1878-1971)

奥村寅吉(1878-1971)
(奥村家所蔵)

参考文献をどうぞ <参考文献>

  •  『岡山市史 体育編』  岡山市史編集委員会  岡山市役所  1964
  •  『英名録』  奥村家所蔵
  •  『奥村左近太奉公書』  池田家文庫マイクロフィルム  リールNo.TDC-083
  •  『岡山県柔道史』  金光弥一兵衛  1958
  •  『備前岡山藩の弓術』  守田勝彦  吉備人出版  1998
  •  『池田家文庫マイクロ版史料目録 4 藩士2』  岡山大学附属図書館  丸善  1993
  •  『近代剣道名著大系 10 大日本剣道史』  堀正平  同朋舎出版  1986
  •  『歳月の記 岡山文化人像』(奥村寅吉の項)  山陽新聞社編集局  山陽新聞社  1971
  •  『山陽新報』 明治17年12月24日 明治18年7月22日・8月7日 明治36年1月13日
  •  『山陽新聞』 平成12年3月21日朝刊
  •  『岡山城下町武家屋敷絵図(「備前岡山地理家宅一枚図」復刻)』  正富安治  1981
  •  『特集 二刀流』  「月刊剣道日本」65号  1981年6月  p.38-45
  •  取材協力:奥村家、坪井家  この場を借りてお礼申し上げます。

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