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浦上 玉堂
浦上春琴筆
 林原美術館蔵

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浦上 玉堂うらがみ ぎょくどう


 玉堂が士籍を捨て、岡山を去ったのは50歳の寛政6年(1894)のことであった。
 『池田家履歴略記』(斎藤一興編)は、鴨方藩士浦上兵右衛門が紀一郎(のち春琴)と紀次郎(のち秋琴)の2子を連れて丹後の城崎温泉から出奔する旨の書付を送ってきたこと、その書付が4月21日に到来したことを載せる。『蒹葭
(けんか)堂日記』によると、同年4月3日、6日の両日玉堂が2子をつれて木村堂を訪ねている。
 浦上玉堂はわが国画壇の中にあって、独自の心象風景を描いた孤高の画家として高く評価される。玉堂が画を描くようになったのは40歳ごろからで、それは興にまかせて胸中の山水を我流に描いたものといわれるが、そこには他の誰にも表現しえない芸術性がたたえられていると指摘されている。
 浦上玉堂は延享2年(1745)岡山城下石関町天神山にあった岡山藩の支藩鴨方藩邸で生れた。通称兵右衛門、35歳の時、明の顧元昭の七弦琴「玉堂清韻」を入手したことから玉堂琴士と号するようになった。
 浦上氏は玉堂の父宗純の伯母常が鴨方藩の藩祖池田政言(まさつぐ)の側室となって2代藩主政倚(まさより)を生んだことから代々鴨方藩に仕えたもので、父の死で玉堂が家督を継いだのは7歳の時であった。城下三番町に屋敷を拝領し、ここに住んだ。16歳の時、1歳年上の4代藩主政香(まさか)の御側詰となり、その後も藩主の側近として重用されたが、玉堂24歳の明和5年(1768)政香が病没。玉堂は若い主君を悼んで「止仁録」(しじんろく)を著している。
 玉堂は若いころから学問に励み、詩文に親しみ、琴を嗜んだ。江戸在勤中には玉田黙翁
(たまだもくおう)から儒学を、多紀藍渓(たきらんけい)に琴を学んでいる。
 玉堂はなぜ武士を捨て、岡山を去ったのか。玉堂とも親交のあった一興は『履歴略記』のなかで、「性質隠逸を好み、常に書画を翫び、琴を弾じ詩を賦し、雅客を迎へ世俗のましらひを謝し、只好事にのみ耽りけれは勤仕も心にまかせすなりゆき」とするが、出奔前、玉堂は讃岐の梶原藍渠
(かじわららんきよ)への手紙のなかで「岡山ハ一向学問流行不仕候」とか「岡山ハ日々殺風景」などと記しており、これが岡山を去る理由の一つであったことは間違いなかろう。また、2年前には妻安を亡くしており、玉堂は50歳を機に積極的に自らの文雅の道を志したものと思われる。
 出奔した玉堂は絵を描き、琴を弾き、友人や好事家の所を転々とした。会津・熊本・大坂・水戸・高山・金沢・堺などに足跡が残る。文化10年(1813)ごろから京都の春琴の家に同居するようになったが、文政20年(1820)没し、本能寺に葬られた。
 玉堂については画集、伝記とも出版物が多い。


『岡山県総合文化センターニュース』No.422号、H12年、7月

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