正阿弥 勝義しょうあみ かつよし

 syouami-face.GIF (24440 バイト) 正阿弥勝義
(林原美術館蔵)
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 正阿弥勝義は、江戸から明治の変革期にありながら、常に自らの作品の完成のみを求めつづけた金工である。

 天保3年(1832)に津山の二階町の彫金師、中川勝継の三男として生まれる。幼名は淳蔵。

 幼少の頃から父に彫金を学び、江戸幕府に出仕した後、18歳のときに岡山の彫金の名家、正阿弥家の養子となる。正阿弥家の九代目となってからは、実兄中川一匠の指導を受ける。一匠は、代々徳川家に仕える彫金師、後藤家の門人であり、江戸幕府及び宮中の御用職人を務めていた。

 正阿弥家は代々岡山藩の御抱え職人で、藩主の注文に応じて刀装具を作り、安定した暮らしをしてきた。しかし勝義の代には、明治維新で藩主との雇用関係は解消され生活の保障がなくなり、さらに、廃刀令により刀装具の仕事もなくなってしまった。 

 そういう時代の流れで、多くの金工が廃業していく中、勝義はその技術を生かして新たに花瓶や香炉などの室内装飾品、彫像などの美術工芸品の制作を始めた。明治11年(1878)には、神戸の貿易商の注文で、当代随一の工芸家達と3年がかりで大衝立を作り上げる。これはアメリカに輸出され、現在ボストン美術館が所蔵している。

 その後、勝義は国内、海外を問わず精力的に博覧会や美術展に出品し、各地で高い評価を受けた。受賞30数回、宮内省買い上げは13回に及んだという。

 その作風は、上品にして精緻
(せいち)、ときに生々しいほどの写実的な表現で、丹念に作り上げる。またその作品の色数の多さ、鉄錆地の美しさは、彫金師の中でも群を抜いている。

 晩年は美術研究のため、京都に住まいを移した。明治41年(1908)に脳卒中で京都で逝去し、墓は岡山の東山にある。

 参考文献としては、「正阿弥勝義の世界」(臼井洋輔)、「正阿弥勝義の研究」(浅原健・臼井洋輔)、「日本の彫金−その歴史と伝承技術−」(船越春秀)、「岡山県立博物館研究報告第二集」、作品は「岡山県立博物館館蔵優品図録」「林原美術館名品選」などでみることができる。

daruma-m.GIF (34145 バイト) 正阿弥勝義作 芦葉達磨像
(林原美術館蔵)
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『岡山県総合文化センターニュース』No.417号、H11年,9月

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