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黒住宗忠画像
武田五峰筆(部分)
黒住教本部蔵

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黒住 宗忠くろずみ むねただ


   江戸時代末期になると、民衆の中から新しい宗教が生れるようになった。岡山県下でも黒住宗忠によって黒住教が、備中国占見村[うらみむら](金光町)の川手文治郎(金光大神)[こんこうだいじん]によって金光教が立教された。
   黒住教の立教は幕末期に創設される民衆宗教のなかではもっとも早い文化11年(1814)のことで、奇しくもこの年は金光大神誕生の年にあたった。
   黒住宗忠は安永9年(1780)備前国御野郡上中野村(岡山市上中野)に、今村宮の神官黒住宗繁の三男として生れた。
   幼いころから親孝行で知られ、両親の言いつけを守ろうと片足に下駄、片足に草履を履くほど生真面目な子であったと伝えられている。
   33歳の時、備前地方をおそった流行病で相次いで両親を失い、心痛の余り、自らも結核に冒され、危篤状態となった。文化11年正月のことであった。父母の死を嘆くあまり、自分がこのような身体になったのは大きな親不孝であると気づいた宗忠は、太陽に向かい、心を養い陽気になることが真の親孝行であると悟るようになり、太陽を遥拝することで次第に病状が回復、平癒したという。
  この年の冬至の朝、太陽に向かって一心に祈っていた宗忠は太陽が体内に入り、無我の間に太陽と自らの生命が一体化する神秘的な感動を体験し、この体験をもとに独自の信仰を確立した。この体験は「天命直授」[てんめいじきじゅ]と呼ばれ、黒住教の立教はこの時とされている。
  宗忠は人間は太陽=天照大神の分身で、元来神と人は一体であるという。人間は心に迷いが生じると病気や不幸になる。それ故、心を改めて神と一体となれば、自由の境地を得て陽気暮しができる。そのためには、日々、信心・寛容・禁欲・謙虚・勤勉・誠実・感謝に努めなければならない。宗忠の教えは心の持ち方、いわゆる通俗道徳の実践を説くものであったと考えられている。門人には、はじめ岡山藩士が多かったが、次第に庶民層にも浸透、宗忠の晩年には、その数は1000人近くになったといわれる。
  嘉永3年(1850)2月25日の、日の出の刻に老衰のため71歳で没した。
  宗忠没後はその高弟赤木忠春らによる布教活動が活発におこなわれ、幕末には西日本に30万人の門人を擁するまでに発展したといわれている。
  黒住宗忠については、伝記をはじめ多くの著作がある。また、宗忠以後の黒住教の発展についての論文・研究書も多い。

『岡山県総合文化センターニュース』No.424号、H12年、11月

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