池田 忠雄いけだ ただかつ

 池田忠雄は、慶長7年(1602)10月28日に播磨国姫路に輝政の三男として生まれた。母は徳川家康の二女督姫である。(督姫は以前北条氏直に嫁いでいた。)慶長13年4月18日に徳川秀忠の御前で兄の忠継とともに元服し、松平姓を賜り、秀忠の偏諱(へんき)をもらっている。慶長15年2月23日に淡路国を賜り、6万3千石の領主となる。この時忠雄は9歳であった。兄の忠継が元和元年に亡くなると忠雄に備前国および備中国浅口、窪屋、下道、都宇四郡のうちにおいて31万5千石を賜り、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に昇進している。

 池田輝政が領していた姫路は、輝政の長子利隆が嗣ぎ、利隆が元和2年に亡くなると利隆の子、光政が嗣いでいく。池田光政は元和3年に姫路から因幡伯耆両国へ国替となり、池田家は姫路の領地を失うことになる。

 備前国主となった池田忠雄の主な事蹟として元和5年6月広島城主福島正則が改易となった際に池田光政、森忠政、蜂須賀至鎮
(はちすかよししげ)らとともに広島城請取に参加したことや寛永3年に徳川家光に供奉して上洛し、正四位下参議に任ぜられらたことが挙げられる。備前国内では御野郡米倉・泉田などの新田開発を行い、また田原井堰(たわらいぜき)・神崎新堀も築いた。寛永検地の実施や岡山城月見櫓の建築も忠雄の時である。

 池田忠雄は正室として蜂須賀至鎮の女
(むすめ)を迎え、池田光仲をもうけている。蜂須賀至鎮の室は徳川家康の嫡子であった信康の孫にあたり、徳川家と縁浅からぬ関係に蜂須賀家はあった。池田忠雄の死後、子の池田光仲が因幡伯耆へ池田光政が備前へ移ってくることになる。

 鳥取池田家と岡山池田家を比較した場合、徳川家康の外孫である池田忠雄を祖とする鳥取池田家の方が池田利隆以来の池田家嫡流としての岡山池田家より家格の面からいえば上であるということができる。岡山池田家の場合は正室を徳川一門から迎えたことはないが鳥取池田家の場合は徳川一門から迎えている。また支藩を比較した場合、岡山池田家の支藩は池田姓であるが、鳥取池田家の支藩は松平姓を名乗っている。徳川家康の外孫であるということが大きく影響しているといえよう。

 池田忠雄は荒木又右衛門が活躍した伊賀上野鍵屋の辻の仇討ち事件に関係しており、この事件について調べてみるのも面白い。

【参考文献】
 『池田忠雄墓所調査報告』
 『岡山県史 近世T』
 『岡山藩政史の研究』(谷口澄夫著)
 『岡山県歴史人物辞典』

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(岡山県歴史人物辞典)山陽新聞社

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『岡山県総合文化センターニュース』No.427号、H13年、5月

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